19歳の時、一水会の作家T氏に伴い、日本橋柳屋ビル裏八重洲中通りに面した「北荘画廊」へ案内されました。
間口2間程、奥に長く商品に埋め尽くされた狭い店、店の外にも額の入った箱が山積みされた、画廊と名が付いてはいますが、画材と額縁を扱うお店です。
以来、店を閉めるまでの35年間お世話になりました。
用がなくても必ず立ち寄り、筆や絵の具を手に取り、お茶を飲み、雑談をして、かなりの時を過ごしました。
必要な物は、必ず使う物と、値段を気にすることもなく、ツケで自由に持ち帰ることを許されました。
請求書を一度も頂いたことはありません。
初代の社長は東大法学部卒・商工省出身の管氏。
戦後、第一号の画廊を主宰し、画材不足の作家に画材を提供した事が始まりと聞いています。
無類の愛読家で、 蔵書の重みで家の床が抜けた話もあるくらいです。
長身で物静かで、いつもスーツとネクタイ、会えば必ず近くの喫茶店に誘われ、コーヒーをご馳走になりました。
本を読むこと、誠実な生き方を勧められ、いつも気にかけていただきました。
晩年一冊の本を出版され、ご自身の美に対する想いを綴られました。
二代目の社長は倉さんこと倉片氏。
画材を扱うということで、自ら絵を描き始め何度も個展を開くまでになりました。
お酒が大好きで、良く酒の席も共にしました。
取材旅行もご一緒し、特に草津へは何度も足を運びました。
好き勝手に画材を持ち帰れば、おのずとツケは貯まるもの。
私は二度も知人の好意で、かなり貯まったツケを清算していただきました。
最初は世話になりっぱなしの、銀座金鈴画廊のオーナーに。
二度目は倉さんのポケットマネーで、
「オイ!0(ゼロ)にしといたから。」
と・・・・今でも涙の出る思い出です。
倉さんは研究熱心で、気に入った作品に出合うと必ずメモをして、ご自身の制作に取り入れていました。
ペインティングナイフを駆使して風景、静物と巧みにセンスのある作品を制作しました。
ナイフは針のように摩耗し、筆のように使い込んでいます。
またガラス絵も得意!ガラスの裏から指先で絵の具を乗せてゆくのですが、多くの方々に支持されていました。
三代目の社長は体調を崩し四代目と変わります。
四代目は寡黙で誠実な大分県出身の江藤氏。
氏も絵を描き、取材も良く一緒に行きました。
日展の故江藤哲氏は彼の伯父です。
返しきれない恩をいただき、今も感謝の気持ちでいっぱいです。
口数の少ない人ですが、私には、絵のことや生き方を熱く語ってくれることも多々ありました。
新年会に忘年会、社員旅行とすべてのイベントに参加して、たくさんの出会いと思い出、悲しいこと、楽しいこと・・・こんな形の画材店と私の関係、誇れるものとここに書かせていただきました。